昭和48年12月23日 月次祭
二十三日の月次祭は、何時も、若先生がお説教を当番しております。今日は本年も最後の御月次祭だから、親先生あなたがして下さいち。ま私が今日はおかげ頂きました。今日四時の御祈念をさせていただきました。御神前に出らせて頂いて、まぁ深々と神様にお礼を申させて頂いております折から、お湿りがいよいよ、ひどうて軒をたたく雨の音。そして、私がお礼を申し上げておる神様への、お礼の言葉それとこれとが、何か一つになって、丁度何かなんとも言えぬ、波紋にと申しましょうか。調子が出てる。
もうお礼を申しましても、お礼を申しましても、限りないお礼の言葉が、次から次と出てくる。もう、本当に、こんな事と思うておった事までが、御礼の対象である。もう限りない、お礼の言葉で過ぎてしまった。ちょうど柔らかい土の上に、降り注ぐ雨のように、私のお礼の御祈念が、神様の深い広い心の中に、染み通っていくような感じである。皆さんも、そういう体験をなさることがあるでしょう。御祈念をなさっておられる。願いでもなからなければお詫びでもない。
只々お礼繰り返し、繰り返しお礼を申させて頂いておると、ただ有難うなってくる。あれは、神様もまた、有難いと、みそなわせてからのお心であろう。またそのお心の現れが、私の心のなかに、その様に現れてくるのであろうという風に思うのでございます。御道の信心を頂かせて貰うて、一切が、神様の御働きであり、しかもその御働きは、神様、氏子信心しておかげを受けてくれよという、ご一念の現れであると言う事が、段々分かってくる。だから一切のことが御礼の対象なのだ。
例えば商売人でいうなら、儲かったことも有難いなら、損をしたことも有難い。いやまるっきり引っかかったことも、また有難い。降るのが有難いならば、また照るのもまた有難いと気付かせてもらうところから発するお礼心。私は今朝から御理解を頂いて、ははぁこういう心の状態こそ、神と仲ようする信心だなというふうに思うた。神を怖がってはならぬ。神に出来るだけ近付く、近寄るようにしろ。神と仲ようする信心ぞと。そういう御理解に基づいての御教話でした。繁々とお参りをしてくる。
これはやはり神様と、仲ようするための前提なのである。参ってきておる内容は、あれも頼まなければならない、これもお伺いをしなければならない。願うことは山ほどある。その願いを聞いてもらうために、お参りをしておるのではあるけれども、お参りをしてくると、お取次ぎを頂くから、または、お取次ぎを願わせてもらうから、そこに頂かせて貰うものは、御教えなのである。神様のお心なのである。そこから自分の願い心と言うものの、願いの調整といいますかね。はぁこれは願い方が間違っておった。
例えば、役場に書類を出させて頂くでも、願いの形式が違うとったら、それだけでも却下される。判の押しどころが悪かっても却下される。ただがむしゃらにどうぞどうぞ始めの間は、まぁ分からんのだから、役場のほうで訂正をしてくれたり、判もここですよと言うて丁寧にして、代行をしてくれるのですけれども。お取次ぎを頂かせて貰うて、段々もうその辺が、自分で分からせて貰うようになってくる。果たしてこういう願いが、神様のお心に通うものか、叶うものか。
そこからいわば願いの修正、そして頂いて帰るものは、神様のお心である。そのお心を体すると言う事。それが信心だとも段々分かってくる。今朝からの神と仲ようする信心と言うのは、神様の心を体しての生き方と言うものがです。神様と仲ようする事なのだ。神様が水ならば、私も水になることなのだ。神様が油ならば私も油になることなのだ。でなからなければ仲ようで来ません。そばまで行っとっても分離してしまう。
神と仲ようする信心と言うのは、いわゆる神様の心を心としての行き方が出来るように、段々なってくると言う事。なってしまわなければというのではない。目指すところは、そうなのだけれども、それもほんなら始めから、大きな事と言う事でもない。それぞれの信心の程度、程度に応じてのことなのである。けれども姿勢はやはり、そちらのほうを向いてからの信心の稽古でなからなければならんと言う事なのです。
神と仲ようする信心。信心しておかげを受けるのは、人の良いのと悪いのとは、別物だ。あの人は仏様のような人だ、神様のような人だと言うても、次々難儀な事が起こってくると、世間では、どうした事であろうかという様な事があろうが。神信心しておかげを受けるのは、別物と仰る。ですから、それは、ほんなら、こんな沢山こうしてお参りになっとりますけれども、皆さんが、立派な心の人ばっかりとは思われない、いうなら信心の無い人から、後ろ指を指されるような人もあるかも知れん。
はぁあれどんが、信心なしよるばってん。もう言う事する事がと、いう風に言われておる人があるかも知れん。私共でも言われておるかも知れん。そのような自分ですけれどもです、お取次ぎを頂いて、お願いをするところから、神様にすがって願っておかげを受けるというのは別物なのだ。どんなに善人だと言うても、仏様のような人じゃ、神様のような人じゃと言うても、信心が無かったら、どうしてあのようなあんな良い人が、どうしてあんな不幸になっていくだろうかと言う事があると言うのです。
信心しておかげを受けるというのは、だから人が良いのと悪いのと、だから信心しとってという様な見方は間違いなのである。けれども信心をさせて頂くことによって、神様の心が分かってくるところから、神の心を心とすることの精進が、段々なされてくるところから、いわゆる真の信心と言うのは、そこではなかろうか。そこから真のおかげが頂けてくるのではなかろうか。
真のおかげと言うのは、神恩を悟り神恩に報謝し奉る心。その神恩と言う事が、降ることに対しても照ることに対しても、一切のことに神様にお礼を申させて頂いておると。あれもおかげであった、これもおかげであった。今までは、あんな、歯がゆいことだと思うっておった事までも、実をいうたら、神愛の現れであったことが分かって来る時に、それがお礼になってくる。もう只々お礼を申し上げるばっかり。
午後の御祈念は、私は、必ず、三十分ですけれども。三十分のいうならば、御祈念がです。只々お礼を申し上げることだけに尽きた。それに丁度自然が伴奏して下さる様に、お湿りの音を聞きながら。そのお湿りのリズムに乗って、お礼を申させてもらう。もう何とも信心と言う事の有難さ尊さ。こういう気持ちを一度お互い開かせて頂いたら、信心がいよいよ楽しいもの有難いもの、いわばおっくうなものではない。○○さんじゃないですけれども、あんたばっかりは毎日毎日合楽、合楽ち参ってから。
そげなこついいなさるなち、私は好きでばし参りよるち思いよるね。あんたどんがこつば、お願いせにゃんけんで参りよるとばのと言う様な事なんです。好きで参りよるとじゃない。頼まなんけん参りよるとじゃ。いやそういう笑い話の様な事だけれども、お互いが、その程度のことではなかろうかと、やはり思わにゃいけん。只々お礼を申し上げなければおられない。月に四回の御月次祭は、これはお礼のお祭りと言われております。日々信心の稽古をさせて貰うて、限りなく恵まれていく自分と言うものがです。
言うならこのまぁ、一週間に一回ぐらいの割合に行われるところの月次祭に、その事を問いつかれて、心行くまでお礼を申させて頂く。さぁ今日は月次祭ぞ、今日は一時間早く、仕事は切り上げぞと。さぁご飯も一時間早く頂いて、早うさぁ一家中でお参りをするぞと言うのが、月次祭の私は形に表れてくる、そこで無からなければいけないと思う。これは何時も、月次祭たんべんに感心することですけれども。久富繁雄さんところの奥さんが参って見えると、必ずその事をお届けして帰られる。
今日はお月次祭でございますから、またどうぞ、家族中でお礼参拝が出来ますようにと言う事を願っていかれる。しかも度々願われる。自分で参ろうと思いよったっちゃ、参られんことが起こってくる。許されなければ参られん。だからお引き寄せを頂く、お参りをさせて頂いて有り難いと言う事になるのである。やはりお礼参りをさせて頂く。そのお礼参りも、しかも一家を揃えて一家中で、息子も嫁も孫達までも、一家を上げてお礼参拝をさせてもらう。
私は月次祭はそう言う事に、形の上からでもなってこなければならない。そして家族中のものが、お礼を申し上げる。そしてお礼を申し上げると同時にです。お礼を申し上げて、有難うて有難うてという、そのお礼を申し上げる心にまた、頂いて帰るものがある。そこに一家の改まりと言う事もあれば、一家のまたおかげを頂いていくという、おかげの受けものもそこから出来てくる。私は何と言うても、御道の信心は御礼からだと思う。しかも、今朝から頂きます御理解から頂きましてです。
なるほど、神様が水ならば、私共も水の心にならせて貰うと言う事が、神様と仲ようすることだ。これは大変難しいことのように思うた。けれども今日昼の御祈念をさせて頂きながらね。思わせて頂いた事はです、私共が信心が分かってあれもおかげ、これもおかげと分かるようになれば、真の信者じゃと仰るが。思えば思うほど、あれもおかげであった、家庭の中に難儀な問題があったから、初めて合楽にご神縁を頂いた。ご神縁を頂きそこから、日々神恩報謝の生活が出来るようになったのですから。
その家庭の中に起きておった難儀な問題もまた、神様が手を差し伸べて下さる、一つの表れであったと言う事が分かるでしょう。おかげで信心が出来るようになりました。そのお礼を心行くまでお礼をさせて頂く、お礼を申させて頂いておるとです。神様がそれを、喜びの心いっぱいで受けて下さる。それが感じられる。それを柔らかい土の中に、お湿りが降り注いでおるような感じで、神様が受けてくださる。はぁこれが仲ようする信心と言う、具体的なものだなと、今日はしみじみ思わせて頂いた。
神と仲ようする信心なんだ。言うなら親先生と仲ようする信心なんだ。先日信徒会の、何か忘年会の様な事があって、ここから秋永先生がおかげを頂いた。帰りに杷木の教会の信徒会長である、市川さんが一緒について見えておった。先生こげな事言うて良かでしょうかち。そらどげなことでしょうか言うて下さいち。もう親先生、私はあなたのそばに寄ると、もうあぁたの身体ばこうして、擦ろうごたるものがね、そういう衝動を感ずる。有難いですね。
さっき、西岡先生がお話をしておりましたようにね、それこそ親先生に、恋焦がれると言う様な事ではなかろうか。いうならば親先生と仲ようする信心ぞ。西岡先生はそこんところを、私共はまぁだ手前の所から、ただ親先生をじっと眺めておれば、まぁ言うならば、胸がわくわくするくらいに感じる。まぁいうならば、初恋くらいのものであろうと言う意味の事を言うておった。神と仲ようする信心とは、そう言う事だと思う。
そしたらもうそうですね、一時間半くらい。お話しさせて頂きよったら、もう涙がこぼれてきた。秋永先生とその市川さんを前にして、お話をさせて頂いておったら、涙がこぼれてきた。言うならば神様が好きで応えん、親先生が好きで応えん。本当に触って良いものなら、触ってこうこしゅうごとある感動をです。じっと抑えて合楽に通うてくる。だからなるほど医者が見放した胃癌でも、この人が助かった訳が、そこにあると言うものを感じた。病院で手術をする寸前にお願いに見えた。
手術をせずにおかげを頂けと言う事を頂いて、手術をせずにおかげを頂いた。もう一人の総代さんは、同じ状況であったが、手術をしておかげ頂いて良かったと言いよったけれども、それはもう一年余りで亡くなられた。それを思いこれを思いすると、籍は杷木の教会で、しかも信徒会長と言う役にあるのだけれどもです。信心は合楽で無からなければ頂けないというものを思うておる。
今日は、この頃、日田に参りましたときに、三人、新しい方がお参りをしてきておった。 そしたら聞いてみたところが、みんなそこの、○○教会のご信者さんなんです。初めて聞くほどしの感動、金光様のご信心永年しとったけれど、取次ぎ者と言うのはこういう方を持って、取次ぎ者と思うと感じて、三人で話して帰ったという。もう私はもう今日は感動で、身体が震うように、あの合楽の先生にお目にかかった途端に。その人があの先日からお礼に出てきました。
夫婦でお礼に出てきた。長いあいだ不眠症で悩んでおったのが、もう、すっかりおかげを頂いて、もう今日で四日、丸五日目になるが、日々熟睡のおかげを頂いておると言うて、お礼に。今日参ってきた人は、その人と一緒に来ておった、パーマ屋さんであった。この前、その一緒に参った方、その方は八百屋さんでしたが、その方とその方が言うておった感動を、初めて合楽に今日おかげを頂いて感動した。もう先生お参りをさせて頂こうという気になったら、もう神様の働きが、そこに始まっておった。
隣の材木屋さんが、私がこうやって、よそ行き着物を着ておったものですから、あどっか行きなはるなら、私は久留米に、今日は行きよるけん、あっちのほうなら乗せて行くよち言わっしゃった。あらぁそら私は合楽にお参りしようと思うとるとじゃから、お願いしますと言うて、それに便乗してここまでこらせて頂いた。こらせて頂いたら、まぁだ親先生がここには座っていなかった。御理解を頂いて頂き終わって出たところへ、私がここへ座った。途端に感動した。ここへ来てから頭が上がらなかった。
真に有り難いと思う心が、すぐにみかげの
(録音が切れている)
合楽には何とはなしに、そういう人に感動を与えるというか、有り難くならせねばおかぬという働きがある。ただお互いの信心が言うならば、マンネリになっておる。日に日にさらの信心が出来ていないから、先生とはもう友達のごと仲ようなってるけれども、これは、本当の仲ようなっとるのじゃない。仲ようなっておると言う事はです。親先生の心に添わせて頂こうという、その精進こそが仲ようなるのである。親先生が右と言われても、そんな訳にはいかんこんだ左にいかにゃ。これで仲ようなれる筈がない。
先生が水なら、自分も水になろうと、精進することなんです。日々、お参りをされておる方達がです。おかげを受けておるのは、日に日にが、さらな心から生れてくる、信心の感動が、その人達の上にさらなおかげが、いよいよ進展していっておるのであります。今年も、いよいよ月次祭と致しましては、最後の御月次祭。まぁ一週間余りあります、いわゆる三十一日に、昔は大祓い式と言うておったけれども、一年中のお礼お詫びのお祭りが仕えられる。
そして明けてまた、元旦祭と言う事になるのですけれども、今年の締めくくりとしてです。お詫びをするところは、お詫びをさせて頂いてです。神様から許されたという心。もう、そこにはこれから、神と仲ようなっていけるというものが生れてくる。詫びるところは詫びらせて貰うて、お礼を申し上げるところは心行くまで、お礼を申させて頂いて、今年を締めくくりたい。そして、新たな年を迎えたい。
おかげは人が良うても悪うても、お願いをすればおかげは受けるけれども、神と仲ようする信心と言う事は、繁々と参ったから、神様と仲ようしておると言う事ではない。昨日、桜井先生が、福岡の共励会に、二十一日が共励会、だから二十二日、昨日です。お礼に出て見えて、まぁあちらでおかげを受けた話し、お届けをなさっておられる。そのなかに、先生、時間が少し早うございましたから、あの近所にここにお参りを、今日もお二人で、夫婦で参って見えておられますが。
あちらがあの、食堂であると言う事を聞いておりましたから、したらもうすぐ近所でした。それであちらで夕食をさせていただきました。先生そしてもう有り難いじゃないですか、もう本当に有り難かった。まぁだあの方の信心は、ご主人だけの信心が、段々最近は奥さんと二人、その信心になり、しかも本当にこう二人仲よう、有り難そうにしてお参りをして見える。あちらへやらせて頂きまして、一番有り難かったのは、お店にこの頃、御本部で頂いてきたあの実意の、金光様のお書き下げがありましたね。
あれが綺麗な額に飾って、お店に飾ってある。ちょっとお座敷のほうば見たところが、その御神飯がお供えしてあって、色んなお供えがしてあってから、こう何かこうちょっとした額が上がって、それが神様のごたる。上がって見せて頂きましたら、先生何と先生から、何かお書き下げ頂いたと言うて、このくらいなものが貼ってあります。で何が書いてあるじゃろうかと思うたら、先生それは親先生の都都逸の文句が書いてあった。それを拝ませていただく。
( 録音切れ )
しょうにしておると。それにお花をお供えしたり、お水をお供えしたり、御神飯をお供えして、朝晩拝ませて頂いておる。心が乱れた時には、もうその前に、ここをご神前と思うて拝むと、こう言われた。その都都逸の文句が、どういう文句かと言うとね。「ままにならぬと、まま鉢投げりゃ、そこら辺りは、ままだらけ」と言う。確かそうでしたね。ままにならぬと、まま鉢投げりゃそこら辺りは、ままだらけ。以前の私はそうであった。もやもやすると、それを投げる。
そすとそれがまた、いよいよそのもやもやを広げて行くような格好になっておったのが、はっと心のなかにもやもやがすると、すぐもう自分ところでいう御神前に。その御神前の御神体は何かと言うと、都都逸の文句である。それなんです金光様のご信心は。必ずしもヒノキの香の、ぷんぷんする中に、御神鏡がお祭りしてあるとか、こうと言うことじゃない。最近ではそう言う事が、もうほとんど全廃になってです。いわゆるあのこの天地書附を、御神体として拝むようになった。
御本部も、全部そうなった。天地書附なのである。おかげは和賀心にあり。はぁこんな心ではおかげは受けられんと思う心。そういう精進が、金光様のご信心なんです。私はそれを聞かせていただいてです。ここで信心の稽古をしておる人達がです。まだ言うならば、年端も行かない信心なのである。年数から言うても、ほんのわずかばかりの信心だけれども、そういう店の上にも、また家庭の上にもです。
信心の教えが生き生きとして、その家庭を支えておると言う事を聞かせて貰うて、しかもそこはちゃんとお掃除がしてあって、御神飯がお供えして色んなものがお供えしてあったと聞いた時にです。金光様のご信心の真髄なのだ。そこんところを把握しておられると言う様に感じた。ちょっと神様はお祭りはしとるばってんごみだらけ。てんで花はいたびらじゃからもう枯れとる。御三宝はあっち向いたりこっち向いたり、これじゃいかに神様と仲ようする信心をしようとした所で、出来る事はなかてそう言う事では。
おかげは受けます。蹴散らかしとったっちゃ、おかげは頂く。けれども、それでは、仲ようするという事にはならないでしょうが。今日は皆さんに、どうでも今朝から頂いております、神と仲ようする信心と言う事を、その内容をです。まぁいうならば、今朝から、あらゆる角度から説かせていただいたわけですけれども。有り難いと、心行くまで、お礼を申し上げる。
それこそが私は神と仲ようする信心だと言う風に思うです。神様と仲ようなってくりゃ、どう言う事になってくるかと言う事はもう言を待たない。今年締めくくりをです。そういうしみじみと、深々と神様にお礼の申し上げれる信心を持って、締めくくらせていただいて、どうぞ新たな年を迎えさせて頂こうと、私自身も思うております。皆さんもどうぞそういうつもりで、信心をなさる。信心の稽古をなさらなければいけないと思う。
どうぞ。